「よっ!」
驚いた楓の肩がビクッと動き、ゆっくりと振り返る。
「……藤原くん?」
楓は訝しげな顔をする。
警戒心が強い野良猫のように、人を拒絶するオーラが見えそうだ。要は掌をひらひらと振りながら、ニコニコと楓に近づいていく。
少しでも警戒心を抱かれないようにという、彼なりの計らいだった。
「一人で掃除してんの?」
近くにあった机の上にひょいと座り、要が尋ねる。
楓は俯いてしまい、何も応えない。
目線も一切合わせようとしてこない。「……おまえさあ、よく一人で掃除してねえ?」
その言葉に、楓の眉が少し動いた。
「そんなことない。何か用事?」
動揺を読まれないように、冷静を装った楓が小さく反応した。
まだまだ警戒を緩めそうにはなかったが、反応があったのは収穫だ。要は心の中でガッツポーズを決めた。
楓と要は隣のクラスで、たまに校内ですれ違ったり、要が楓に一方的に話しかけてくる以外に接点はない。
要は友達も多く、人気者で、いつも楽しそうに生きている……ように楓には見えていた。そんな彼がなぜ、正反対の楓に声をかけるのか。
楓には見当もつかなくて、戸惑うばかりだった。「嫌なことは嫌って言えよ。いつもみんなの言うこと聞いてるだろ? 疲れない?」
突然の要の発言に、楓は驚愕する。
なんで要がそのことを知っているのだ、と不思議に思いつつ、楓は冷静を装い言い返した。「……関係ない」
「関係なくない、俺はおまえが心配なんだよ」楓は驚いて要を見る。
要の表情は真剣だった、からかっているようには見えない。楓は心底不思議だった。
なぜ私にそんなに構うのか、なんで心配するのか……。でも、そんなに嫌な気持ちはしなかった。
なんだかムズムズする。変な気分だ。
「それは……疲れるけど……嫌だけど」
楓の言葉が途切れる。
要には彼女が何かを思案しているように感じ、しばらく次の言葉を待った。「みんなの言うこと聞かないと、私……意味ないし」
その瞬間、楓の言葉は重みを増し、瞳に影がよぎった。
彼女の中に見た深い悲しみの根源は、この陰にあるのではないか。
要はそれを逃さなかった。「何? どういう意味?」
要はわからない、だから知りたかった。
楓は持っていた箒をぎゅっと強く握って叫ぶ。
「――なんの役にも立たない、何の利用価値もない、そんな私だったら誰も必要としない! 近づいてこないっ!」
言い終えた楓は軽く肩を上下させている。
それだけ彼女の中で感情が溢れていた、ということだ。楓の口から出た言葉に、要は愕然とした。
そんな風に思っていたことが、ショックだった。「おまえ、マジで言ってんのか……それ」
要の声のトーンが落ちる。
その声音は、楓の心をざわつかせる。「……そう。私はずっとそうやって生きてきた」
楓はずっと下を向いている。
お互いどんな表情をしているのかわからなかった。
「なんで……なんで、そんな悲しいこと言うんだよ!
お前がお前のままで必要としてくれる人がいないなんて、そんなわけないだろ? そんなわけっ――」要は怒っているのか泣いているのか、そのどちらもかもしれない。
怒りや悲しみのこもった複雑な表情を楓に向ける。楓は混乱する。
なぜ要がそんな表情をして、そんなことを言うのか。突然、要の両手が楓の手を包み込んだ。
楓は突然のことに驚き、要の顔を凝視し一歩引く。
「今までおまえのこと必要だって言ってくれる奴がいなかったのか? 大切にしてくれる奴はいなかった?
そうなら……そうだったなら、自分だけは自分を大切にしてやれよ……っ」握られた手に力が込められる。
要は楓の両手を自分の額に当てた。まるでお祈りしているような恰好だ。楓はなぜだかわからないが、だんだん気分が悪くなってきた。
この空気感、心地よさを全身で拒絶している。心が拒否反応を示し、排除しようとしている。
ダメだ、こんなの慣れてない! 吐きそうだ、耐えられない。
楓はおもいきり要の手を振りほどいた。
「言ってる意味が分かんない!
いいの、私は。今のままで、いいの!」楓は要から距離を取った。
要はすぐに距離を詰め、楓に迫ってきた。
「お前は傷つきすぎて心がマヒしてんだ!
今からでも自分を大切にしろ、でないとお前は一生自分を殺しながら生きていくんだぞ! ……それでいいのか?」要は必死に楓を引き留めようとする。
しかし楓の心が悲鳴を上げ、警鐘を鳴らしていた。これ以上、心を荒らすな、踏み込むな……と。
「やめて! やめて! あなたに何がわかるの!」
楓は要を突き飛ばし、教室から走り去っていった。
一人教室に残された要は、ぐったりと下を向き「ああーっ」とうめくと頭をガシガシと掻きむしる。悔しかった、楓を傷つけてしまったんじゃないかと……そんな自分が許せなくて。
大きなため息をついたあと、窓の外に赤々と煌めく夕日を背に、要は目を伏せた。
あの日から、要は前にも増して楓を気にするようになっていた。 毎日のように話かけてくる要を、楓は避け続ける日々。 楓はあの日以来、要と向き合うのが怖かった。 要といると、ずっと心の中に封印していたものがうずく。それを認めたくなかった。 ある日、楓の家に要がやってきた。 チャイムが鳴り響くと、楓は嫌な予感がした。 玄関のドアを開けると、そこには満面の笑みをこちらに向ける要がいた。「よっ」 軽やかに手を振る要に、げんなりとした表情の楓。 なんで彼はこんなにも自分に構うのだろうか、と楓は要の存在が不思議で仕方なかった。 イケメンで人気者なのに、実はちょっと変な人なのだろうか。 もう、放っておいてほしい。「何してるの?」 「何って……おまえに会いに?」 要は悪気もなく答える。「おまえ最近、俺のこと避けてるだろ? 寂しくてっさあ」 さらっとすごいことを言う、恥ずかしくないのだろうか。 寂しいって、言われたのいったいいつ振りだ? いや、はじめてかも。 楓は下を向き、固まってしまう。 きっと顔は赤くなっているに違いない。「なあ、家族いねえの? 挨拶させてよ」 要は家の中を覗き込もうと、顔をキョロキョロと動かす。「何言ってんのよ、帰って」 楓が扉を閉めようとすると、それを要が阻止してくる。「なんで? せっかく来たのに。いいじゃん、ちょっとくらい」 「ダメ、絶対。とにかく帰って、お願い」 玄関の前で二人が騒いでいると、「何やってるの?」 楓の妹の美奈が、要の数歩後ろから二人を訝しげに見ていた。 要が美奈を指差し「誰?」と尋ねる。「あなたこそ誰?」 美奈が言い返す。「え? あ、あの、その」 二人に挟まれ、楓はあたふたする。 こんな状況になる日がこようとは思いもしなかった。 だって、楓を訪ねてくるような人はいなかったから。 どういう反応をすればいいのか、楓の処理能力が追いついていかない。「あ、妹か」 要が勘を働かせ、見事言い当てる。 すると、美奈も即座に場の雰囲気を察知し、可愛く微笑みながら挨拶する。「楓の妹の美奈と申します、よろしく。そちらは?」 絶世の可愛さと天使の様な微笑みを見ても、顔色一つ変えず要が挨拶を返す。「あー、どうも。俺は楓さんの友達です!」 「ぶっ」 あまりの不意打ちに、
楓の家族は父と母と妹の四人家族。 父は医者、母は専業主婦、妹は進学校の私立中学に通っている。 父は家族に関心がない。 楓が物心つく頃から可愛がられた記憶はなく、いつも冷たい目で見下ろされたことしか思い出さない。 父には愛人がいるようで家にいないことが多かった。 母も愛人の存在を知っているようだったが、父に捨てられることを恐れ何も言わず耐えていた。 母がいつもイライラしていることが多いのは、そのせいもあるのかもしれない。 父は決して家族を愛しているようには到底思えなかった。 朝早くに出て行き、夜遅くに帰ってくる。 家族とは滅多に顔を合わせないし、合わせたとしても話もろくにしない。 休みの日があっても、家族をどこかへ連れていくことは絶対ないし、自分のためにしか時間を使わない。 助けが欲しいときも、助けてくれたことはなかったし、はなからそんなモノに気づくことはない。 妹の美奈(みな)は誰からも愛されていた。 頭が良く、容姿端麗、要領もよく、友達も多い。 大人たちからも信頼されていた。 そんな美奈が、父と母から寵愛を受けるのは、ごく自然なこと。「お姉ちゃんも、もっと賢く生きた方がいいよ」 昔、楓は美奈にそう言われたことがある。 楓には無いものを沢山もっている、それが楓の妹、美奈だった。 母の亜澄(あすみ)は、とても繊細で傷つきやすく、とても脆い人。 いつも自分を守ることに必死で、余裕がない。 父に愛されるため、妹に気に入られるため、いつも二人に尽くしている。 まるでそのことで、自分の存在を確かめているかのように。 ただ、楓にだけは違っていた。 亜澄は楓の前だといつもイライラしていた。 美奈のことは可愛いのに、楓のことは可愛くない。 どうしても愛せなかった。 ストレスが溜まるたび、それを楓にぶつける日々。 亜澄は楓に嫌悪感しか感じられなかった。 これが、楓の家庭の当たり前だった。 この家族しか知らない。この家しか帰る場所はない。 たとえそれが、地獄のような日々だったとしても――。 楓は一人、家路を歩いていた。 だんだん家が近づくにつれ、楓の胃がシクシクと傷み出す。 帰りたくない、しかし、行く当てもない。 どこへ行けばいいのかわからない、行きたいところもない。 重い足を懸命
「よっ!」 驚いた楓の肩がビクッと動き、ゆっくりと振り返る。「……藤原くん?」 楓は訝しげな顔をする。 警戒心が強い野良猫のように、人を拒絶するオーラが見えそうだ。 要は掌をひらひらと振りながら、ニコニコと楓に近づいていく。 少しでも警戒心を抱かれないようにという、彼なりの計らいだった。「一人で掃除してんの?」 近くにあった机の上にひょいと座り、要が尋ねる。 楓は俯いてしまい、何も応えない。 目線も一切合わせようとしてこない。「……おまえさあ、よく一人で掃除してねえ?」 その言葉に、楓の眉が少し動いた。「そんなことない。何か用事?」 動揺を読まれないように、冷静を装った楓が小さく反応した。 まだまだ警戒を緩めそうにはなかったが、反応があったのは収穫だ。要は心の中でガッツポーズを決めた。 楓と要は隣のクラスで、たまに校内ですれ違ったり、要が楓に一方的に話しかけてくる以外に接点はない。 要は友達も多く、人気者で、いつも楽しそうに生きている……ように楓には見えていた。 そんな彼がなぜ、正反対の楓に声をかけるのか。 楓には見当もつかなくて、戸惑うばかりだった。「嫌なことは嫌って言えよ。いつもみんなの言うこと聞いてるだろ? 疲れない?」 突然の要の発言に、楓は驚愕する。 なんで要がそのことを知っているのだ、と不思議に思いつつ、楓は冷静を装い言い返した。「……関係ない」 「関係なくない、俺はおまえが心配なんだよ」 楓は驚いて要を見る。 要の表情は真剣だった、からかっているようには見えない。 楓は心底不思議だった。 なぜ私にそんなに構うのか、なんで心配するのか……。 でも、そんなに嫌な気持ちはしなかった。 なんだかムズムズする。変な気分だ。「それは……疲れるけど……嫌だけど」 楓の言葉が途切れる。 要には彼女が何かを思案しているように感じ、しばらく次の言葉を待った。「みんなの言うこと聞かないと、私……意味ないし」 その瞬間、楓の言葉は重みを増し、瞳に影がよぎった。 彼女の中に見た深い悲しみの根源は、この陰にあるのではないか。 要はそれを逃さなかった。「何? どういう意味?」 要はわからない、だから知りたかった。 楓は持っていた箒をぎゅっと強く握って叫ぶ。「――なんの役にも立たない、
いつも気になってた―― 君の瞳の奥にはとても深い闇があって。 誰も届かない闇の中、一人膝を抱え震え。息もせず、声を殺しながら泣いている、君がいる……。 なのに、君はいつも笑うんだ。 苦しみを隠すために。 儚く今にも消えてしまいそうな君は笑うんだ。 何が君をそんな風にしてしまったのか、本当の君はどんな人なのか、すごく気になった。 いつのまにか目で追うことが多くなって、気づくといつも君を探してた。 君が無理に笑うのを目にする度、心の底から笑うところを見たい。 そう願ってしまう、強く願ってしまったんだ。 寂しく微笑む君は、何もかもあきらめてしまったような悲しい目をする。 なぜ? 何が君をそうさせている? もっと君を知りたい……。 廊下では、生徒たちが他愛もない話に花を咲かせている。話声や笑い声、廊下にはたくさんの音が交差していた。 とても平穏な学校の風景。 春の暖かな日差しが差し込み、窓から爽やかな風が吹き込むと、窓際で佇んでいた藤原(ふじわら)要(かなめ)の髪が風になびいた。 その様子を偶然通りかかった女生徒がうっとりとした目で見つめる。 要は世間でいうイケメンだった。 長身でスタイルもよく、人が羨むような整った綺麗な顔をしている。勉強もスポーツも人並以上にできたし、性格も悪くなく、校内ではかなりの人気者の地位を確立していた。 本人はそんなことにはまったく興味はなく、要が今、興味を持っているのはただ一つ――。 要は爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出す。「よしっ」 気合を入れると、ある場所へ向かうため歩き出した。 要は目的の場所で足を止める。 教室の入口から中の様子を伺うため、そっと覗き込んだ。 放課後ということもあり、教室にはほとんど生徒は残っていないようだ。 女生徒が数人ほどしかいなかった。 要はその女生徒たちに注目する。 どうやら、数人で一人を囲んでいるようだ。中心にいる女生徒は、下向き加減でそこにいた。 井上(いのうえ)楓(かえで)は、いつも下ばかり向いている。 自信無さげで大人しくて、いかにもいじめの標的にされそうなタイプだった。「ね、お願い。井上さん、掃除当番代わって? 私たち今日大切な用事があるんだ。井上さんは暇でしょ?」 いかにもギャルっぽい感じの女生徒が、